李花槍天下無敵 著:井上裕美子
「中国の歴史上の人物の名を、十人以上、挙げられる日本人は何人いるのでしょうか。
三国志の、過剰ともいいたいようなブームもあるし、ここのところ史記や春秋戦国時代を
舞台にした小説もよく読まれているようですから、これは案外たやすいかもしれません。
では、中国史上の、実在の女性の名を十人といわれて、すらすらと答えられる人は、
いったい何人いるでしょう。」

本書の、あとがきの冒頭部分での筆者御自身の言葉です。
書店でこの本を見かけて、買おうかどうか思案しながらパラパラと飛ばし読みしていたら、
この文章が目に付きました。
結局、この一文が気になって購入・読書に到りました(あと、お気に入りの時代である
宋代の話ということもあって)。

物語は13世紀のはじめ、舞台は山東半島から淮河の線まで、つまりは当時の金領内
です。
そして主人公は、当地に在って女真族に対し反乱を抗し続けている漢人女性、楊妙真と
その夫の李全。ただこの楊妙真という女傑、筆者もあとがきで
「宋代の研究をなさっている方以外、楊妙真の名を聞いたことがある方は皆無だと
思います。」
と述べているとおり、確かにそんな人物の存在はまったく知りませんでした。

本作は天下争覇の壮大な物語といったものではありません。しかし、この『金領内での
漢人反乱軍』という、ある意味宋代を語る上で外せないと思われる時代背景に着目した
筆者はさすがだと思います。
それでいて、井上裕美子さんが他の作品でもよく根幹にされている『余り知られていない
中国史の女性をとりあげる』
という部分を、やはり本作でも大前提にした上で作られています。
こういった、歴史の大局には影響が無いけれども、間違い無く重要な物語というのは
大好きですね。

ちなみに私は最初、学研のハードカバーでこの作品を買って読みました。
ところが最近文庫版が出ているのを書店で発見し、表紙イラストが皇名月さんが
描かれているのを見て、文庫版も買ってしまったのでした・・・。



紅顔 著:井上裕美子
呉三桂。
明末期の武将で、清軍(満州族)の侵攻を中国北方の山海関で鎮守していた人物。
ところが、都・北京が李自成率いる民衆反乱軍によって陥落されたため、一転、
関を開き進軍と結びこれに当ることにする。
結果、異民族による中国支配のきっかけを作ったことになり、後世おおいに批難の
的となっている。
ここにひとつの物語があり、李自成に攻略された北京には呉三桂の愛人・陳円円が
残っており、愛する女性を反乱軍に捕らえられたとの報を受けたため、呉三桂は
関を、国を開け渡したのだといいます。

本作品はまさに、この呉三桂・陳円円の両人からなる大河物語で、そこには歴史の
転換点、大国の興亡があります。新国家の創業における大人物の足跡が描かれて
いて、また王朝の移り変わりに苦悩し、それぞれの行動を示す人物たちが表されて
います。

私はこの時代の予備知識はほとんど持っていなかったのですが(皇なつきさんの
『黄土の旗幟のもと』
くらい)、本作品は人物立てもしっかり成されていた為か十分に
理解しながら、物語も楽しめました。
読む前は、呉三桂と陳円円はベッタリの男女中であるのかと想像していましたが、
井上裕美子さんはとても深い繋がりで二人を描かれており、その人物の作り方が
リアルに私を作品にのめりこませてくれました。

予備知識の無さがかえって人物たちに無理なく溶け込めたかも知れません。
純然たる帝王の風格を持ち、圧倒的な器の違いを思い知らせるドルゴンが副主人公
的な存在感を見せ付けてくれます。
そして、呉三桂と似通っていながらも対になる人物として銭謙益が配されています。
あと、有名な国姓爺・鄭成功も脇役ながら出ていますし。

「一点の曇りもない英雄や忠臣より、どこかで道をふみちがえたような人物を
選んでしまうのは、業でもあるのでしょうか。」
「ただ、時代の間に立たざるを得なかった人々の想いや、等身大の息づかいを描いて
いけたら―そう願うばかりです。」
作者が本作とは別の機会に語った自己の価値観ですが、やはり呉三桂を題材として
いるところにも同じ心情があるのでしょう。

最後に、私が強く惹かれてしまった人物を。
四川の地で、かつては明朝に反抗し、そして王朝が清に変わっても、明の皇族の
生き残りを迎え入れて清に抗してビルマまで落ち延びて生涯を終えた 李定国
という人物です。
彼が掲げた『反明』そして『抗清復明』にはいったいどんな意味があったんでしょう。



公主帰還 著:井上裕美子
宋代を舞台とした短編集。
各物語のタイトルと、主人公は以下の通りです。

・「潔癖」・・・・・・・米フツ(くさかんむりに‘市’)
・「公主帰還」・・・南宋の高宗・柔福公主 
・「僭称」・・・・・・・張邦昌
・「芙蓉怨」・・・・・趙光義・費氏
・「贋作」・・・・・・・李信
・「白夫人」・・・・・白素貞・許仙
・「涅(すみ)」・・・狄青

このなかで「白夫人」は京劇や本邦のアニメーションでも有名な「白蛇伝」の井上裕美子
版になっています。(実は私は「白蛇伝」をきちんとは知りません。)

「僭称」で取り上げられている、張邦昌。陳舜臣さんの「小説十八史略」でも金国から
楚の皇帝に仕立て上げられたときに、やはり宋朝への赤心から不幸を嘆じていましたね。
「岳飛伝」では確か、かなり悪人にされていたような。
結構好きなんですけどね、張邦昌。歴代陵墓の修復とかしたんですよね。

「涅(すみ)」の主人公は狄青。
宋朝でもトップクラスの名将との評も聞きます。
農民出身で、兵卒から将軍まで出世していった人物です。逃亡なんかを防止するために
一般兵たちは顔に刺青をされていたということです、もちろん狄青も。
だから「すみ」なんですね。
狄青は井上裕美子さんの代表作のひとつ「桃花源綺譚」にも出てきてます。
あと「万花楼演義」という物語の主人公でもあるみたいですね。

私のお気に入りはこの3篇なんですが、もちろん他の作品も面白いです。



臨安水滸伝 著:井上裕美子
井上祐美子の手による南宋初期の物語。
タイトルに「水滸伝」と付きますが、コレはあくまで『武侠小説』とか言った意味合い
ですので梁山泊とかは関係ありません。あしからず。

さっそくですがこの作品の見所(読みドコロ?)はと言いますと、秦檜の描かれ方では
無いでしょうか。
物語の舞台は、南宋の都・抗州臨安。対金国交戦派の筆頭・岳飛を謀殺した秦檜と、
秦檜の目が光る都市と、そこに生きる人々にスポットがあてられています。

あまり詳しくは書きませんが、本作は従来の岳飛:秦檜の立場を大局的な政治的
見解で新たに塗り直されているのが珍しいかと思います。
岳飛=悲劇の救国の士、秦檜=売国奴 という単純な図式では決して無いという事
ですね。
作中の秦檜の台詞
「岳鵬挙は、だれよりも忠義者だったと思う。だが、その忠誠心のありどころが少し
違っていると思ったのは、儂だけではなかった」
が、私には印象的でした。

作品自体を読み終えた直後は、久々に構成のカッチリした一作を読んだな、とか
思いました。
主要人物の登場⇒その人物たちの掘り下げ・物語のキーになる人物たちの登場⇒
事態急転⇒ラストは大事件からなんとか安息を取り戻す、イロイロな謎だった部分の
説明
といった感じで、映画とかにも出来そうだなとか思いました。

この作品、ハードカバーと文庫があるんですけど、私の勝手な思い込みではそれぞれ
の表紙は
ハードカバー=風生
文庫=資生
なのかなー、とか思ってますが。



桃夭記 著:井上裕美子
四本の伝奇小説を収めた井上祐美子さんの短編集。
「桃夭記」「嘯風録」「迷宮譚」「墨匠伝」と趣の異なった四編が収録されています。
解説の田中芳樹氏の言葉を借りるならば『珠玉の「新志怪」小説』集です。

それぞれに、時代・舞台・登場人物が独立しており、どの話からでも読めるわけですが、
“志怪”と号するための不可思議さの種類も物語毎に異なっています。
あえて“不可思議な”という単語を共通して使い、表現させていただきますと

「桃夭記」・・・不可思議な事件と人物が登場する話
「嘯風録」・・・世間で英雄の様に語られている男の、不可思議な物語にまつわる話
「迷宮譚」・・・不可思議な空間に迷い込んだ男の話
「墨匠伝」・・・至極リアルな群像劇だが終わってみると不可思議な後味を覚える話

という感じに私は捉え分けました。
個人的なお気にいりは「嘯風録」ですが、「墨匠伝」なんかも墨匠の確執という他の
中国史小説では読んだことの無いような設定がかなり斬新でした。

えーっと、あと田中芳樹氏の解説は本文を読むまでは読んではいけません。
激しくネタバレしてしまいます。