三国志から魏の鐘会です。

鐘会 字は子季。頴川郡長社県の人(225〜264)
魏の太傅・鐘ヨウの末子です。
蒋済は5歳の時の彼に会い「並外れた人間である」と評し、その才能を見抜いていたと言います。

夏侯覇が蜀に亡命した際、姜維に「鐘子季という者がおりまして、年は若いのですが蜀・呉にとって心配な事態を招く事になるでしょう。」と進言していたと言います。
のちに15年して正に鐘会は蜀征伐の軍を率いてきたのでした。

蜀平定後に自立の野心を抱いていた鐘会は、進軍中に道路整備の不手際を責め、軍紀を引き締めるためにと許儀(許チョの子)を粛清し、また同僚の諸葛緒の軍を没収し、遂には他方面軍を率いていたケ艾をも謀反の疑いありとして落とし入れました。
そうした上で蜀の降将・姜維と組んで自立しようとしましたが、すでに鐘会の野心を予知していた司馬昭は軍を発しており、焦った鐘会は諸将を脅した上で従わせようとしましたが失敗。混乱の中に殺害されたのでした。

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