北宋末、中国北部は金国によって占領されました。
ただ金国人たちは直接統治を行う自信に欠け、
また漢人の反発も恐れたため傀儡国家として
「大楚」を建国、もと宋の宰相・張邦昌をその皇帝に
据え、間接統治を試みたのでした。

張邦昌、字は子能(?〜1127)。永静東光の人。
北宋末の進士出身で国子監の大司成、尚書右丞、
少宰(尚書右僕射)と昇進を重ねていました。
しかし、事態は一変し靖康元年(1126)に
金軍が宋の都・開封を包囲。
恐れおののいた宋は領土の割譲を申し出て、
宗室から一人・宰相から一人交渉のための外交官を
派遣。
それが張邦昌と、後に南宋の初代皇帝になる
趙構でした。
結局、北宋政権は蹂躙され宋朝は南に逃れ、
趙構を擁立し南宋の建国となりました。
張邦昌は金の軍隊が大楚国から撤退した後に
すぐに退位し、廃されて民間にまぎれていた
元祐皇后に政権を譲りわずか32日間で大楚国を
消滅させました。

のちに南宋・高宗(趙構)のもとに赴き死を
請いましたが、高宗は一旦これを許しました。
しかし宰相の李綱に弾劾を受け自殺することと
なりました。

のちに高宗は、張邦昌が宋朝の陵墓を守った
功績があったのに対して、李綱が非現実的な
理想論のみを唱えていと批判しています。

私は陳舜臣の「小説・十八史略」を読んで初めて
この張邦昌という人物を知りましたが、そこで
書かれている張邦昌は、金国に大楚の皇帝に
まつりあげられた不幸を呪い、あくまで宋の一臣
として生きようとしている人物だったのですが、
「岳飛伝」のような物語ではすっかり悪役に
されてしまっていて、知る度になんとも不憫な
人物だな、と思ってしまうのでした。

井上祐美子の短編集「公主帰還」にも彼を取り上げた
短編『僭称』というものがあります。