三国志から蜀漢の馬謖(字は幼常)です。
当サイトの26代目TOPイラストとして使用していました。

人材の好き嫌いの激しい諸葛亮のお気に入りだった人物で、軍事・戦略を論じることを好んでいました。
諸葛亮は彼を招いては談論をする事が多く、それは昼から夜に及んだと言います。

さて有名なのは諸葛亮の北伐時の街亭の戦いです。
この時、諸葛亮は魏延や呉懿を指揮官に推す声を退け、馬謖を抜擢しました。
結果、馬謖は魏の張コウに敗北し蜀漢軍は撤退する事になり、馬謖は死刑となった訳です。

ここで諸葛亮が周囲の意見を聞かずに馬謖を用いた理由を伊谷なりに考えてみました。
先に諸将から名前の挙がった魏延と呉懿ですが、皆さんご存知のように蜀漢内の政権人士は荊州系と益州系とに二分されてしました。
これで分けると魏延は荊州系、呉懿は益州系だった訳ですね。
ただ諸葛亮は魏延を将としてはともかく、人間的にあまり好んでいなかった、と。
そこで馬謖に徐々に手柄を立てさせて魏延に代わって荊州系の将領の筆頭にまで押し上げたかったのでは無いでしょうか。